天邪鬼
「黒猫」
エドガー・アラン・ポー
精神を病む人の特徴として、
子供の頃から優しいとか、所謂良い子で動物を可愛がる。という特徴が見られる。
その裏には、いつの頃からか”してあげる”という偽善にも似た我慢の上で成り立つ優しさが混在してくる。
期待に応える。
だから〜して(行動、物欲、解放)等の要求が存在していたりする。
しかし、それ等が尽く裏切られると、裏の感情と表の感情が逆になり、本人にも制御できなくなってくる。
今まで抑えていたものが(抑えていたからこそ)噴出してしまう。
この「黒猫」の主人公も、本来優しさの塊のような人だった。
大人になって、裏の顔に支配されるまでの経緯は書かれていないけれど、
余裕がなくなる程、何かしら嫌な出来事があったに違いない。
自分の周りの優しさの象徴を疎み、足蹴にし、ついには家庭内犯罪を犯してしまう。
その一番惨い目に会ったのが 黒猫 で、自分の主人に片目をえぐり取られてもなお擦り寄っていく。
偽善の心の持ち主にとって、本物の善の心は悪魔が十字架を刺されると同じくらい苛立ちを覚え、より憎悪することだろう。
そして、病んでしまった心は、何かを「してはいけない」と思えば思うほど、それをしたくなるようだ。(天邪鬼)
してはいけない。してはいけない。してはいけない。。と抑え込むエネルギーがやがて動源力となり、無意識に罪を犯すことになる。
それは特別なことではない。
誰しもが心のどこかに巣食っている何かを持っているはずだ。
この物語の主人公は、罪を隠すことでまず安心し、そして、警察にバレなかったことで慢心する。
そして、慢心して悦に入った人間は、次に何をしたくなるか?
タネを明かしたくなるのだ!(自慢)(ベラベラと多言になる。)
犯人は必ず現場に現れる!ってのも、似たような犯罪心理じゃないかな。
この物語は、何故犯罪を犯したか?ではなく、人間というやわな生き物が、自分の思惑と違う傾向になると、きっかけ次第でどこまでも壊れてしまうという、誰にでも起こるかもしれない人間の裏の姿を表に出してきた衝撃的な内容だ。(自分はそんな事ないと思いがちだからこそ。)
ポーの小説はまだ読み始めたばかりだが、
人のふり見て…ではなく、自らの内にある醜い心と対峙しているように思った。
思い当たることありませんか?
令和元年7月27日
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