羅生門/芥川龍之介
自宅本棚に見つけた芥川龍之介の短編集を手に取って読んでみた。
先ずは、有名な「羅生門」。
羅生門という小さな舞台一箇所で繰り広げられる深い物語。
終始暗い背景に、窮地に陥った人間に光の宿ることを許されない実情が見える。
生き抜く為に犯す犯罪は許されるのか。
(正当防衛的解釈)
はて、その場合、誰の許しが必要なのか。
ここに、芥川龍之介の人間の観察眼の鋭さを思う。
おそらく、人間の生きたいという執着を滑稽に見ていたのだろうと思う。(何れ死ぬのに)
私は、言い訳が付き纏う以上、そこに正義は無いと思っている。
自分を正当化するための言い分の殆どに正当性はない。事実だけを伝えればいいのだ。
ここでは、そうしなければ生きていけないと登場人物の二人が同じことを口にする。
初め、死人から髪の毛をむしり取る老婆を見た男は、その行為が許されないものと憎悪する。
が、老婆は、この女(死人)は生前、生きるためと言い訳をし、人様を騙して稼ぎを得ていた。なので今、自分がこの女の髪の毛を抜いて売りさばいても何のお咎めもないはずだと、、。(言い訳)
その言い分を聞いていた男は、それなら俺のする事を悪くは言えまい!と、老婆の着物を剥ぎ取る。。\(°Д° )/自分も生きるためにこの着物を売るのだと。(言い訳)
被災地で、ひと気のなくなったコンビニやスーパーから物を盗む人を思い出した。
あれは明らかに窃盗で犯罪である。
ここで生きるためと言う言い訳が通用するとは思えない。
かと言って、この時代の荒れ果てた京の町のように人々が飢え苦しんでいる時に、目の前に食べ物があれば盗って食べるだろう。
いくらこの男のように正義風を吹かしていても、善悪の選択の余地がなくなった途端、それは正当化するという都合のいいことになってしまうのだ。
倫理とか正義とか通用しない時が来たとき、
結局ひとは、自分さえ良ければ...的な動物になる。
何れ死ぬのに。
その一時を過ごすために罪を犯す愚かさ。
羅生門に終わりはない。
あるのは自分の罪を全うに見せるために言い訳をする人々の、絶えない輪廻だけ。
滑稽だね。
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